仁和会の歩み
公益財団法人仁和会 ももの里病院のはじまりについて
当法人の初代理事長の西井弘之は、岡山医科大を卒業したての時(昭和9年6月 1934年)に大学医局から金浦町立病院に赴任しました。その際に金浦湾にある「天然記念物かぶとがに蕃殖地」の碑を見て興味を持ち、多忙な診療の合間にカブトガニの究明に着手し始めました。(昭和10年初夏 1935年)
日華事変の当初(昭和13年 1938年)、召集を受けて出征し、軍医として野戦病院に満4年4か月勤務。帰国後はのちに保健所となる倉敷簡易保険健康相談所の所長として結核療養読本を執筆(昭和18年1月 1943年)。敗色濃い太平洋戦争の末期(昭19年8月 1944年)に再度召集を受けて、台湾よりルソン島、パレテ峠の悲惨な激戦に従軍しています。(野戦病院上級軍医。この記録は「ルソン島の野戦病院全滅記」として書籍化されている)この世の生き地獄を自ら体験し、数少ない生存者の1人として帰国した後、笠岡市で西井内科を開業(昭和21年 1946年)。地元社会の恩恵に対して、さらに1歩進めた奉仕的事業はないかと考えた結果、志を同じくする人々と共に財団法人仁和会を設立しました。(昭和29年6月 1954年)これが当院の始まりです。
仁和会とは、『仁術を和して行う』として、当時の岡山県知事であった三木知事が命名されたもので、職員が「仁」の心でそれぞれの任務の使命感に燃え、協調と人の「和」で、常に患者中心の医療に徹するという意味も込められています。
昭和33年(1958年)には民間としては日本初となる笠岡スピーチセンター(無料、常設吃音矯正学校)を公益事業として開設。昭和40年4月(1965年)には笠岡歯科技工士学院を開設(全国で14番目の開設)、仁和記念賞やカブトガニ保護少年団育成など、その他多くの公益事業を行っています。
カブトガニ博士としても有名であった西井弘之は、昭和37年9月(1962年)に、当時の皇太子ご夫婦にカブトガニのご説明を申し上げる名誉を担い、同年10月には秩父妃殿下にも同様説明を申し上げています。
創立当時の精神は、現在の公益財団法人仁和会 ももの里病院にも受け継がれており、地域の精神科医療の発展に努力し続けています。
写真資料①
写真資料②